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技術面と斬新なアイディアに定評あり。惜しまれつつ引退した奇才

ディオールやジバンシィでもデザインを手がけてきたのが、「ジョン・ガリアーノ」です。

ジョン・ガリアーノは、1985年に自分の名を冠したブランドでコレクションデビューを果たします。

カッティングなどの技術面に定評があり、世界中の民族衣装を徹底的にリサーチしてそれをモードという枠組みの中でコレクションに取り入れるなど、斬新なアイディアが多くのファンを魅了し続けています。

ブランド創設者であるジョン・ガリアーノは、ジブラルタル生まれ。6歳の時、父の働いていたロンドンに移り住みます。

セントマーチンズのモード科を主席で卒業後、卒業制作のコレクションが評判を呼んだことで、ブティック「ブラウンズ」のジョーン・バーンスタインがガリアーノと5年契約を結びます。

85年、ロンドンコレクションでデビュー。

しかし、投資家とのトラブルがあったり、デザインが革新的過ぎてなかなか受け入れられなかったりと、決して順風満帆なスタートではありませんでした。

一方で、手法や創造力は高く評価されており、これが後にジバンシィのデザイナー抜擢につながることとなります。

89年に、コレクションの発表の場をパリにうつしますが、資金難のため友人宅で寝泊まりをしながら何度も投資家をまわっていたといいます。生地が買えなかった時は作品数は素少なく、黒の生地のみでつくった真っ黒なコレクションもありました。

95年、ジバンシィが自身のブランドを引退すると、後任としてガリアーノがジバンシィのデザイナーに大抜擢。LVMHによるこの大抜擢は、大きな波紋を呼びました。

96年には、クリスチャンディオールのデザイナーに就任。

97年春夏オートクチュール・コレクションからディオールデビュー。「ブリティッシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞しました。

ガリアーノの活躍もありディオールのプレタポルテ部門の売上は驚異的に伸びましたが、201年、バーでトラブルを起こしたことから、「ディオール」と「ジョン・ガリアーノ」を解雇されます。

後任には、これまでブランドを支えてきたビル・ゲイテンが就任しています。

父親の名声?その懸念を自ら払拭した若手デザイナー

元ビートルズのポールマッカートニーと、リンダマッカートニーの次女としてロンドンに生まれたステラ・マッカートニー。1995年に、自身のレーベルを立ち上げました。

ステラ・マッカートニーの特徴は、シャープでセクシーなテーラリングに、女性らしい柔らかさを融合させていることです。

1995年に、映画、美術、ファッションなどを教える学校として有名な、「ロンドン芸術大学セントラル・セントマーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン」を卒業。

卒業コレクションでは、モデルのケイト・モスを起用したことで注目を集め、彼女らがステラ・マッカートニーをすぐに着用するようになってから、デザインも注目されるようになりました。

ステラは、クリスチャンラクロワの下で学び、エドワード・セクストンのもとでジャケットなどのテーラードの勉強をしました。これが、彼女のシャープなテーリングの起源になっているようです。

97年、25歳の若さでクロエのクリエイティブディレクターに大抜擢され、1998年春夏から、2001~2002年秋冬までデザイナーとして活躍。自身のコレクションは二度開催しただけでしたが、ブランドの成長に大きく貢献しました。

これまで、父親であるポールマッカートニーの名声で脚光を浴びてきたと思われがちだったステラの才能は、クロエのデザイナーを務めたことで確かなものとなり、若手層にも顧客を拡大することに成功。伝統的なブランドのデザインに、ロンドンのストリート色を加えたことが成功の要因だと言われています。

2001年、グッチグループの後押しがあり、自身の名を冠したブランド「ステラマッカートニー」を設立します。

2005年には、アディダスとコラボしたブランド「アディダス・バイ・ステラマッカートニー」を発表。2005年には、H&Mと、2007年にはターゲットと、2008年にはレスポートサックとバッグのコラボを始めるなど、他ブランドとのコラボを積極的に行ってきました。

2008年、日本に初めての直営店がオープン。

イタリアファッション業界で最も尊重されたデザイナー

イタリアのファッション業界で、最も尊重されたデザイナーの一人が、ミラショーンです。正確な仕立てと、洗練されたスタイルが有名。
ミラショーンは、1916年、ユーゴスラビアのダルマティアに生まれます。裕福な家系で、幼少の頃にイタリアに移住します。イタリアで、裕福な男性と出会い、結婚。
もともとバレンシアガの顧客であり、その素晴らしさに魅了されたミラショーンは、1958年にミラノで小さなアトリエを開設します。オートクチュールコレクションの顧客だったことから、服づくりを始めとするファッション業界について大変詳しく、顧客が臨むものなども心得ていました。また、クリスチャン ディオールなどでも服を仕立てていたというほどの、実力を持っていたといいます。

1959年、自身の名を冠したブランド「ミラショーン」を開始します。
彼女が生みだすデザインは、パリのトレンドをそのまま取り入れたものではなく、イタリア風にアレンジしたものでした。先進性もありつつ、イタリアの持つ機能性を取り入れたものです。
イタリアに関連するユニフォームをつくったこともあり、オリンピックのイタリア代表にユニフォームを提供したことも。

1965年、フィレンツェで初コレクションを発表したことで、一気に世界からの注目を集めます。翌年にはミラノにショップをオープンし、徐々にイタリアの都市へと進出していきました。
当時のミラショーンのコレクションではイヴニングドレスが特に好評で、ドレスに刺繍を施したもの、ゴブラン織り、ペルシャ風のデザインなどの人気が高かったようです。最高級の素材と、彼女が若かりし頃から培ってきた縫製の高度な技術を加えたテーラリングが特徴でした。
60年代後半に進出したアメリカでも好評を得、日本には83年に進出します。

その後、ブランドはさらに大きくなっていき、ハンドバッグ、財布、靴などのアクセサリーラインをスタートさせました。

2008年、ブランド創業者であるミラショーンは、91歳で死去。

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