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世界発の旗艦店を青山にオープン。復帰を果たしたドイツデザイナー

2012年9月に、世界初の旗艦店を東京・青山にオープンしたブランド「ジル サンダー」。
「装飾なきデザイン」をコンセプトとして掲げ、着飾ることではなく、ファッションで内面の美しさを表現できるシンプルさや品格を大切にしています。
そのためには素材やカットが非常に大切。そして、それと同時に着心地のいいものに仕上げることにこだわりをもっています。

ブランド創業者であるジル・サンダーは、1943年ドイツのハンブルグで生まれました。
アメリカカルフォルニア大学に2年間在籍後、ニューヨークの雑誌社にて女性向けファッション雑誌のファッションジャーナリストを経験。
帰国後、68年にハンブルグにブティックを開設し、ソニアリキエルなどの服を中心に販売しながら、その中で自身が手掛けたものも少しずつ販売していたそうです。

73年にパリ・プレタポルテ・コレクションでデビュー。85年よりミラノへ活動の場を移してから、87年にミラノコレクションへ参戦します。
ジル・サンダーがデザインを手がけ始めた70年代は、カラフルな服が流行しており、彼女がデザインするような繊細で洗練された服は受け入れられにくかったといいます。
彼女が本当の意味で認められ始めたのは1990年代に入ってからでしたが、香水の売上が良く、ジル サンダーはなんとか70年代、80年代を乗り越えます。

89年、ジル サンダー社はドイツで上場を果たし、海外への進出も開始しました。
その10年後、99年、プラダグループがブランドとしての絶頂期に、ジル サンダーの株式75%を取得する形で買収します。
しかし、「素材の質を落としたくない」と主張するジルは、コスト削減に走ったグループのトップであるパトリッツィオ・ベルテッリと対立し、デザイナーを辞任。
彼女が引退した後、2000年春コレクションでは今までのジル サンダーにはないような華やかなデザインを発表し、皮肉にも、好評を博す結果となりました。

その後プラダグループの呼びかけによってジルは再度デザイナーに復帰しますが、2004年にはプラダとの不調和を理由に、再び辞任。
2005年、ラフ シモンズがメンズウェアおよびレディースウェアのクリエイティブデザイナーを務めます。
翌年、Change Capital Partnershipがプラダからジル サンダーを買収。
以降、シモンズが手掛ける芸術的なコレクションは世界中で高く評価されるようになりました。
しかし2012年秋冬コレクションを最後にシモンズがクリエイティブディレクターを辞任することが発表され、後任にはジル・サンダーが再度復帰することに。
ジル復帰第一段の、2013年春夏コレクションも発表されています。

20年代初頭のファッションの王様

女性のコルセットを解放したデザインをしたことで、女性解放者と称されるデザイナーが、ポール ポワレです。
パリ生まれのポール ポワレは、ジャック ドゥーゼのメゾンで働いたあと、1901年からオートクチュールの創始者であるウォルトのメゾンに入ります。そこでは相当、ファッション観の問題で苦悩したといわれています。

ポール ポワレが独立したのは、その2年後の1903年。自身の名を冠した「ポール ポワレ(Paul Poiret)」を設立します。
1906年、ハイウェストのドレスを発表します。これは「ローラ・モンテス」というドレスで、それまで女性の腰をしめつけてきたコルセットを追放した革新的なアイテム。女性たちもコルセットのストレスから解放され、ファッション史上最も画期的な発表であったといわれています。

1911年、動きやすさを追求した「キュロット・スカート」を発表。
これだけでも革命的な発表でしたが、その後もホップル・スカートなどを発表し、ファッション業界に次々と革命をもたらしていきました。

ポール ポワレは、デザインだけでなく、ビジネス面においても優秀だったといわれています。通常より安い価格で販売でき、多くの人が買うことのできる仕組み作りを心掛けたといいます。これが、現代のファッション業界の先駆けといっても過言ではないでしょう。

現代では、ケンゾーやアレキサンダー マックイーンなどがエスニックなどの要素を取り入れたファッションを発表していますが、誰よりも早くそのような要素をデザインに盛り込んだのは、ポワレだといわれています。
表現の違いはあれ、インドや中国の要素を取り入れたり、西洋絵画や古典的なファッションを取り入れたりと、全く新しいデザインを展開していました。裾あがりのチュニック「ソルベ」などがその代表的アイテムです。

また、クチュールのメゾンでは初めて香水を発表したのも、ポール ポワレです。
その後、工芸学校を設立し、モードの普及に尽力します。しかしシャネルらの新鋭デザイナーの流れについていけず、メゾンは衰退し、ついに幕を下ろすこととなります。ポール ポワレは、1944年、パリにて死去。
現代では多くのデザイナーに尊敬され、影響を与えた偉大なデザイナーとして知られています。

美しい衣装が特徴の、フランス発ブランド

幼くしてスーツの仕立てを習得し、ファッション業界を志していたのが、フランス生まれのエマニュエル ウンガロです。
エマニュエル ウンガロは、1933年、フランス南部のブーシュ=デュ・ローヌ県エクス・アン・プロヴァンスに生まれます。
父はフランスで小さな紳士服店を営んでおり、この頃からウンガロはスーツの仕立てを習得していたのです。

1957年、パリに移り翌年からクレージュの推薦によりバレンシアガのアシスタントとして働き始めます。ウンガロにとって、バレンシアガとの出会いは衝撃的でした。バレンシアガの偉大さ、厳格さは多いにウンガロに影響を与えたといわれています。

1965年、独立してブランド「エマニュエル ウンガロ」を設立。彼の衣装は非常に美しいことが特徴です。同年、当時の恋人だったソニア・ナップとともに会社を立ち上げます。

90年、50歳の時に、イタリアの国営テレビ局の会長を父にもつラウラ・ファファーニと結婚。96 年、サルヴァトーレ フェラガモ社にブランドを売却します。
フェラガモは国際的な販売網とマーケティングを強みにしており、ウンガロの美しい衣装を融合させたもので、友好的な買収であったといわれています。

2002年春夏からウンガロのデザインチームで活躍していたジャンバティスタヴァリがデザイナーに就任。ウンガロのデザインを受け継ぎ、そこに若さとエネルギーを融合させたデザインで活躍しました。
その後ヴァリは独立し、2006年秋冬からはノルウェー出身のアメリカ人デザイナー、ピーター デュンダスがデザイナーを引き継ぎ、3シーズン務めました。

2008年、23歳の若さでエステバン・コータザーがエマニュエル ウンガロのレディースコレクションのチーフデザイナーに就任します。しかし翌年、辞任。同年にリンジー・ローハンがアーティスティック・アドバイザーとして就任するも、後に辞任してしまっています。

2010年には、クリエイティブ・ディレクターにジャイルズ・ディーコンが就任することが発表されました。

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