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ハリウッドセレブに愛されるアイウェアブランド

1986年、ハリウッドで創業したアイウェアブランドが、「オリバーピープルズ(OLIVER PEOPLES)」です。

20年以上にわたり、人気を獲得し続けているアイウェアブランドで、特にハリウッドセレブや、ミュージシャンなど、多くの著名人に愛用されています。

創立者は、Larry Leight(ラリー・レイト)とその弟Dennis Leight(デニス・レイト)、そしてラリーの友人Kenny Schwartz(ケニー・シュワルツ)の三人です。

ラリー・レイトはオリバーピープルズを始める前から高級なアイウェアを扱う店を経営していて、80年代の初めには自分のアイウェアを製作していました。最初に人気を博したものは、トレンドのアイウェアでした。

オリバーピープルズは、当時のアイウェアブランドとは一線を画すよう、高級感溢れるギャラリーのような空間にし、最高級のサービスをするというコンセプトのもとつくられました。

ブランド名は、彼らの原点となったヴィンテージフレームのそばにあった「オリバーピープルズ」に由来。彼らはそのサングラスにほれ込み、そのデザインを現代風にアレンジし、独自のアイウェアをつくりだしたのです。

それが、86年のヴィジョンエキスポで業界に衝撃を与えました。

オリバーピープルズは、高級感というイメージをブランディングの基礎においたため、ニーマン・マーカス、バーグドーフ・グッドマン・バーニーズ・ニューヨーク、ヘンリー・ベンデル、マックスフィールドといった高級百貨店を厳選して、販売する方法を選びました。

ポール・スミス、プラダ、ミュウミュウ、エルトンジョンなど、デザイナーやミュージシャンとのコラボレーションも積極的に行っており、それがさらなる話題を呼んでいます。

2001年、ラリー・レイトは、アメリカのトップ9人のデザイナーの一人に選ばれています。

翌年には、アメリカファッション協議会に、アイウェアデザイナーとして初めて招待を受けました。

08年、クリスヴァンアッシュとコラボレーションで「KRIS VAN ASSCHE by OLIVER PEOPLES」という名で、限定サングラスを発売しています。

自分のライフスタイルをプロデュース。女性憧れの日本発ブランド

「自分のライフスタイルをプロデュースできる女性たちへ」がブランドコンセプトである、「アウラアイラ(AULA AILA)」。

儚く繊細でありながら、エッジのきいた強さのあるデザイン。ファッションに対する柔軟な発想を持つ女性のためのウェアを展開している「アウラ(AULA)」も有名。アウラは、アウラアイラのコレクションラインとしてスタートしたブランドです。

アウラアイラは、2002年、株式会社マーキュリーデザインから、川島幸美がスタート。

兵庫県出身の川島は、幼少期からファッションへの興味が強く、小学生の頃から自身の服をリメイクしていたといいます。中学生の時には、将来の職業としてファッションデザイナーをあげています。

叔母は、歌手の杏里。杏里の「デザイナーはパターンに精通していないと思い通りの服をつくれない」という言葉に深く感銘をうけ、その後の進路決定に影響を与えています。

高校時には、友江久幸に師事しデッサンや油絵を学びます。大学在学時には大阪モード学園パターン専攻コースを受講。

大学卒業後はモード学園2年次に編入し、学内のデザイン画コンテストレディス部門で一位入賞。主席で卒業しています。

1996年に大手アパレル会社にパタンナーとして入社し、後にデザイナーへ転身。

99年にパル(株)に入社し、セレクトショップのプロデューサーを務めます。

02年に(株)マーキュリーデザインにて、アウラアイラのデザイナーとしてデビュー。

05年、(株)CODE.9を設立し、アウラアイラを引き続き運営。

07年、直営店「DraSTic(ドラスティック)」を中目黒にオープン。

08年、ディフュージョンブランド「RYZA」をスタートさせました。

その後、安室奈美恵や富永愛にオリジナル衣装を提供し、吉川ひなののウェディングドレスを手掛けたことでも話題となりました。

バーニーズニューヨーク福岡店では、NYのドールアーティスト、アンドリュー・ヤン製作のファッションドールが話題となりましたが、その中にアウラアイラを着用した川島幸美の人形が展示販売されたことでも注目を集めました。

70年代のアメリカを代表するブランド

70年代の、アメリカを代表するファッションブランドの一つである「ホルストン(Halston)」。

ホルストンは、57年に、創業者のロイ・ホルストン・ホーイックが自身のショップをオープンしたことで始まりました。

ホルストンのロングドレスはシンプルで美しく、実用性が高いことでも人気を集めました。この影響は70年代後半の日本のディスコ文化にも影響を与え、ホルストンのドレスやコピー品が出回るほど。

ロイ・ホルストン・フローイックは、1932年、アメリカのアイオワ州にて、ノルウェー系アメリカ人の一家に生まれました。

52年にシカゴに渡り、シカゴ美術館付属美術大学の夜間部に通いながら、ウインドウ・ドレッサーとして働いていました。地元新聞にホルストンがつくった帽子が取り上げられるなど、当時から注目されていたデザイナーの卵でした。

そして、57年にシカゴにショップをオープン。

同年の終わり頃にニューヨークに渡り、婦人用帽子を展開していたリリー・ダッシェの元で働き始めます。デザイナーとしての知名度が上がっていき、業界でもその名が知られるようになりました。

その後、高級百貨店の帽子デザイナーに就任。その時製作した「ピルボックス・ハット」はジャクリーン・ケネディが身につけ、大きな話題を呼びました。

66年、自身のメゾンをオープンさせ、レディスウェアのコレクションをスタートさせます。

香水部門やメンズウェア部門をスタートさせ、70年代にはアメリカを代表するデザイナーとして成功を収めますが、80年代前半、会社が経営難に。失敗の一番の原因は、ライセンス展開を過剰に行ったため、ブランド価値が低下し、信頼を失ったことだといわれています。

84年、ブランドが売却される形で、ロイは自身のブランドから退きます。

ホルストンはその後、所有者やデザイナーが何度も入れ替わり、伸び悩みます。

しかし07年にマルケッサのジョルジーナ・チャップマンの夫であるハーヴェイワインスタインが株式を取得し、世界的なブランドに成長すべく戦略をとると発表しました。

09年、マリオスショワブがクリエイティブ・ディレクターに就任。

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