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装飾的でセクシーなシューズが多くの女性を魅了

ダイアナ妃やマドンナ、カイリー・ミノーグなどが履いたことで有名なシューズブランドが、「マノロ・ブラニク(Manolo Blahnik)」です。

エレガントなシェイプと、常に細く高いヒールが同ブランドシューズの大きな特徴。そのセクシーなシューズにリボンやビーズを組み合わせたコレクションが人気です。

セクシーでエレガントでカラフルなマノロ・ブラニクのシューズは、日本でも大ヒットとなった海外のテレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティー」にもしばしば登場。主人公のキャリーがこの高価な靴にハマってしまい、衝動買いして破産の危機に陥るというエピソードもあります。

マノロ・ブラニクは、1972年に、マノロ ブラニクが自身の名を冠して立ち上げたブランドです。

マノロ ブラニクは、1943年、スペイン領カナリア諸島で生まれ、チェコ人の父とスペイン人の母のもと、バナナ農園で育ちました。

英語・イタリア語・フランス語・スペイン語が堪能な彼は、スイスのジュネーブ大学で美術と言語学を学び始めますが、その後舞台芸術家になるため68年にパリへ移住します。

70年、知人に紹介してもらったアメリカ版「ヴォーグ」の編集長ダイアナ・ヴリーランドに靴デザイナーになるよう勧められ、その翌年にロンドンに渡り、靴づくりを開始。

72年のコレクションでデビューしますが、靴づくりに関しては初心者だったため、その後10年がかりで職人から学んだといいます。

73年、ロンドンのチェルシーに旗艦店をオープン。

デザイナーのオジー・クラークのために靴を作ったことがきっかけで、その後靴デザイン一筋となります。

現在では、ニューヨークと香港などに直営店を展開しており、イタリアの工場を稼働させながらも、最終的なデザインはブラニク自身が手掛けています。

2001年、ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートから、名誉博士号が送られます。

2008年、エンターテイメント産業へのファッションを通した影響力が認められ、「ロデオ・ドライヴ・ウォーク・オブ・スタイル賞」を受賞。

ダイナミック&独創的なデザインで世界から愛され続けるブランド

ダイナミックなデザインや演出で、1970年に衝撃的なコレクションデビューを果たした「ロベルト カヴァリ(roberto cavalli)」。

パリ・コレクションのデビューステージで、レザーにプリントしたイブニング・ガウンと、ピーチウェアを発表したことで一気に注目を集め、成功への一歩を踏み出しました。

その独創的なスタイルは、数々の世界的ブランドにも影響を与えたといわれています。

ブランド創立者のロベルト・カヴァリは、1940年、イタリアのフィレンツェで誕生。

著名な画家ジュゼッペ・ロッシを祖父にもつ彼の家はアーティスト一家で、幼少の頃からアートに触れて育ちました。

アートとファッションの関係に興味をもったロベルト・カヴァリは、様々なプリントに挑戦し、イタリアの複数の大手靴下工場から注目を集めます。

60年代半ば、シルク製品において、装飾品と縫い目の部分以外全体にプリントできる画期的な技術を生み出します。

70年、自身の名を冠したブランドを設立。コレクションで衝撃的なデビューを果たします。

また、今では代表的なスタイルともいえるパッチワーク制作を開始。

その独創的な表現には感嘆の声が上がり、彼の評判は欧州にまで知れ渡り、エルメスやピエール カルダンから依頼を受けるようになります。

これがきっかけとなり、ロベルト カヴァリは、伝統あるヨーロッパと、当時新しい風を巻き起こしていたアメリカ市場で、最も人気あるブランドとなったのです。

世の中が実用主義になっても、ロベルト カヴァリの独創的なスタイルは衰えを知らず、女優や著名人に愛されトッププランドへと成長していきます。

80年代、公私ともに生涯の良き伴侶となるエヴァ・デューリンガーと結婚。現在エヴァは「メゾン カヴァリ」の全ラインのクリエイティブディレクターを務めています。

98年、コンテンポラリーライン「ジャスト カヴァリ」を発表。

2007年秋冬には、H&Mとのコラボレーションが決定。イタリア人としてははじめて、H&Mとコラボすることとなりました。

ミニスカートブームを巻き起こした60年代を代表するブランド

60年代、イヴサンローランとともにファッション界を引っ張ったのが、「クレージュ(Courreges)」です。

60年代のデザイナーの中で、誰よりも早くオートクチュールからプレタポルテへの流れを察知し、プレタポルテに力を入れてきました。

先を読む力に優れ、流行を引っ張ってきた世界的ブランドです。

クレージュは、1961年、アンドレ・クレージュにより設立されました。

アンドレ・クレージュは、1923年、南フランスのナヴァール地方で地主の息子として生まれました。

土木建築学、飛行学校を経て44年にパイロットとして兵役に従事します。しかしその中で徐々にファッションへの興味が大きくなっていき、第二次世界大戦後にパリでファッションを学び始めます。

パリ高等服飾産業学院に入学した翌年の47年、ジャンヌ・ラフォーリのメゾンでデザインの基礎を勉強。

51年、バレンシアガのメゾンで衣裳構築の美学と技術を勉強。

61年、後の妻となるコクリーヌ・バリエールとともに独立を果たします。同年、パリのクレベール通りにサロンをオープン。

ミニを基調とした明るいスタイルが受け、一躍有名デザイナーへとその名を広めます。

64年秋冬コレクションで、「パンタロンルック」を発表。イヴニングドレスに機能的でスポーティーなパンタロンを提案します。

65年、ミニスカートを中心とした「ミニ・ルック」と呼ばれるスタイルを発表。それまでのオートクチュールで一番醜いとされていた膝を出すことを良しとしたスタイルは一気にブレイクします。

67年、伸縮性に優れた「ボディータイツ」を発表。これが、クレージュの代表的なアイテムとなります。

同年、今まで統一されていたものを3つのメゾンにわけ、それが70年に「イペルボール(プレタポルテ)」「プロトティープ(オート・クチュール)」「マイユ(ニット)」という3つのラインとなります。

71年、香水部門をスタート。

72年、ミュンヘンオリンピックの制服をデザイン。

73年、メンズ部門「クレージュ・オム」をスタート。

76年、3つのラインをプレタポルテとオート・クチュール部門の2つに変更。

80年代に入ると、提携企業であるロレアルとの関係がもつれてしまい財政難に陥り、会社経営とブランドの権利をイトキン社へと譲り渡してしまいます。

90年代は徐々に巻き返しをみせ、ブランドの建て直しを開始。

93年にイトキン社から権利を買い戻し、94年にカステルバジャックによるコレクションを再開します。

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