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パリの上流階級に愛された『BCBG』の代名詞ブランド

セリーヌの発祥は、1945年に女性実業家であるセリーヌ・ヴィピナが夫であるリチャードとともに開いた皮革の子供靴専門店をオープンさせたことでした。
パリの革職人の技術を生かした子供靴で、上流階級に特に好評を得たことで商品数を増やしていき、人気ブランドの仲間入りを果たします。
1959には子供靴だけでなくレディース靴の販売を始め、香水やスカーフ、そしてハンドバックなども展開していきます。
ハンドバックの製造販売を始めた60年代後半に、馬車の柄とバックルのバック「サルキー」や、馬具金具をモチーフにした一枚革の靴である「モカシン」が大ヒットし、人気ブランドとしての確固たる地位を築きあげました。

また、プレタポルテ・コレクションを開始したことでパリの上流階級層から圧倒的な支持を誇ります。セリーヌのプレタポルテは、オートクチュールとは違ったカジュアルな雰囲気で、上流階級の普段着として定着していきました。

しかし、上流階級の代名詞であったBCBG(良い趣味、良い階級の意味で、上流階級のフレンチカジュアル)が徐々に廃れていくにつれ、セリーヌは上品な高齢層のブランドとして定着し、新しいスタイルを提案していくブランドとしての勢いも徐々に衰えていきました。
87年、フィナンシエール・アガッシュ社に買収されて傘下に入り、経営や組織などの改革に突入。
徐々にブランドとしての力を取り戻していきます。

新たな展開を迎えたのはマイケルコースをチーフデザイナーに招いた1998年秋冬。
デザインの方向性を機能性と実用性に重きを置いたことで、カジュアルを好むキャリアウーマンから好評を得るようになります。

日本に初めての路面店ができたのは、2004年の9月。表参道にて、総面積330平方メートルという当時としては最大規模のブティックをオープンさせました。
2005年には、東京・銀座の並木通りにも路面店をオープンしています。
同年のクルーズコレクションからは、イヴァナ・オマジックがアーティスティック・ディレクターを務め、2010年からはフィービー・ファイロがクリエイティブ・ディレクターを務めています。

パフォーマンス重視のコレクションで、スーパーモデルブームの火付け役

ジョルジオ・アルマーニとジャンフランコフェレと並び、ミラノモードの「3G(スリージー)」として90年代のミラノのファッション業界を引っ張ったのが、ジャンニ・ヴェルサーチです。

80年代は贅沢な素材でセクシーなデザインを手がけ、シンプルで巧みなカッティングと縫製ともに完成度が高く、セレブ層向けに大変な人気を博してきました。
90年代には色彩が派手すぎるデザインへと徐々に変化していきますが、エリザベス・ハーレーやシェリル・クロウなどを顧客に持ちます。
とにかく華やかなパフォーマンス重視のコレクションで、スーパーモデルブームの火つけ役として時代の流れを牽引したのもヴェルサーチです。

ジャンニ・ヴェルサーチは、1946年南イタリアのレッジョ・カラブリアに生まれます。
母親がブティックを経営していたことで、幼い頃からファッションに携わっており、母親の下で働いた後にミラノへ。
1972年、「カラガン」や「ジェニー」のデザイナーに抜擢され、1975年には「コンプリーチェ」のレザーウェアのデザインを手がけるようになります。

そして1978年に独立。自身のコレクションを発表し、ミラノのスピーガ通りにショップをオープンします。
天然素材を使用し、巧みなカッティングで評価を得、兄のサントがヴェルサーチ社を設立。サントは現在に至るまで、ジャンニ・ヴェルサーチ社の社長を務めています。

90年、初のオートクチュール・コレクションである「アトリエ・ヴェルサーチ」をホテル・リッツにて発表。95年には映画「ジャッジ・ドレッド」の衣装を手がけるなど活躍の場を広げていきました。
その後ビジネス向けのラインである「ヴェルサーチクラシック」や子供向けの「ヴェルサーチヤング」、コスメの「ヴェルサーチビューティー」など複数のラインを次々と発表していきます。

しかし97年、ヴェルサーチはマイアミのサウスビーチで連続殺人犯であるアンドリュー・クナナンにより射殺されてしまいます。クナナンは事件から一週間後に警察に包囲された状態で自殺。ヴェルサーチが同性愛者であることを表明していたことでクナナンは彼の恋人であったと噂されていましたが、真相は未だ解明されていません。
時代を引っ張った名デザイナーの壮絶な最期として、世の中に衝撃を与えました。

上品なプリント柄モノに成功した「プリントの王子」

「プリントの王子」として名高いイタリアのデザイナーが、EMILIO PUCCI(エミリオ・プッチ)です。
エミリオプッチのデザインは、抽象的であり、幾何学的。独特のテキストプリントを施したシルクジャージ素材が代表的です。これは日本において「プッチ柄」と呼ばれており、アパレル関係者の中ではあまりにも有名でしょう。プリント柄モノは、一歩間違えれば安っぽく軽薄になりがちですが、エミリオのデザインにはエレガンスが最大限に表現されています。

エミリオ・プッチは、1914年、イタリア・ナポリのフィレンツェの貴族の家に生まれました。
ミラノ大学に通った後にはアメリカのジョージア州アセンズの大学で学び、その後はオレゴン州ポートランドのリード・カレッジに在籍。社会学を学びました。そして1939年にイタリアへ帰国し、フィレンツェの大学で学び政治学の博士号を取得。大戦中にイタリア空軍でパイロットを務めてからは政治家としてイタリア議会に10年間在籍しています。

エミリオのデザインが評価されたのは、1947年。
高校時代にオリンピックのスキー選手だったエミリオは、自分でデザインしたスキーウェアを雑誌に掲載し、同誌から女性用の冬服を依頼され、ニューヨークで販売されるようになりました。
これをきっかけに、各国のセレブから品のあるプリント柄モノの評価を得、衣服からカーペットまで様々なプリントデザインを手掛けてきました。アポロ15号使節団のロゴを手掛けたことも有名な話です。
様々な活躍を経て、1990年には米国ファッションデザイナー協議会から表彰を受けました。

1992年にエミリオが亡くなってからは、娘のラウドミア・プッチがデザインを手がけるように。
また、2001年秋冬からジュリオ・エスパーダがアーティスティック・ディレクターを務め、2003年春夏からはクリスチャン・ラクロワがアーティスティック・ディレクターを務めるなど、エミリオの死後は多くのデザイナーがエミリオ・プッチブランドを支えてきました。

日本では、2004年東京銀座に「エミリオ・プッチ銀座店」がオープンし、関東~九州地方までの百貨店で10店舗が展開しています。

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